根室本線旧線(通称狩勝線)の狩勝信号場〜新内駅間では大小いくつもの沢を渡っていますが、
いずれも鉄橋はなく、谷に土を盛って作られた築堤になっているのが特徴です。
その築堤の中でも特に大きな沢を渡っているのがこの「新内沢大築堤」です。
「鉄道路線変遷史探訪V 北海道の鉄道」によると、
「大築堤の工事はわずか10チェーン(200m)の区間に、2万4000立坪(14万4000m³)の
盛土工事を行い明治37年9月に完成した。」とあります。
その数値から想像ができないほどの土の量です。
重機の無い時代、いったいどこからそんな大量の土を運んできたのか、
想像を絶する工事だったことと思います。
築堤で一番高い部分はしたからレール面まで76mほどあるそうで、これは実に高いです。
新内沢大築堤の位置ですが、滝川起点122k410mで勾配は22.7パーミルになっています。
現在ではこの場所に行っても築堤だと言われないとわからないほど木が生えて景色が変わっています。
なので発見する目安としては、私たちが復元した122k500mのキロポストがある場所が築堤です。
現役時代の122k500mのキロポストです。築堤上のキロポストは斜面に平地部分を作って立ててあります。
私たちもこの平地部分の発見がこの場所のキロポストの位置発見の鍵でした。
そしてこの新内沢大築堤の端っこにある「逆川橋梁」ですが、狩勝信号場から新内までの区間で、
唯一ある鉄橋ですが、新内沢の本流よりもずいぶん上にあり、川の流れている場所が不自然です。
実はこの川は人工の川で、その昔この付近に保線員の官舎があったそうで、
その官舎への生活用水として新内沢の上流から取水して流れているそうです。
きれいな川の水の底を良く見れば確かに石がきれいに並んでいていかにも作った感じです。
数少ない現役時代の写真の中で、杉江氏がこの逆川を撮影されていました。
かなり拡大しているためにあまり鮮明ではありませんが、橋梁が良く見えます。
連続するカーブの途中にあったことがわかります。カーブの半径は221.28mです。
最近では笹も育成も激しく水量も多いので、なかなか下からの撮影はできませんが、
過去に一回だけ川の中から撮影しました。現在でもこれと変わらずで、
妙に丸太を重ねてあり、その上に分厚い鉄板を敷いてあります。
Iビームはもちろん鉄道時代のものではありません。しかし橋台はそのままのようです。
しかしコンクリートに変わっていてレンガではありませんが、翼壁は石積みになっています。
〜 昭和37(1962)年8月4日の台風9号による路盤流出 〜
朝鮮半島を横断し進路を北東にかえた台風9号は、
中心気圧990ミリバールで8月4日零時ごろ渡島半島に上陸、一部は日高沿岸を通って、
日高山脈から本道内陸をかすめ温帯性低気圧となり根室沖に抜けた。
当官内ではその影響をうけ8月2日午後からの雨で4日8時現在、
総雨量が根室本線狩勝では250ミリ、新得では211ミリの豪雨となった。
そのため、富良野〜池田間は集中的な被害をうけ、58ヶ所が普通となったのをはじめ
5日朝まででは士幌線、広尾線にも被害は拡大された。
このうち最も被害の大きかったのは根室本線狩勝〜新内間121k855mで発生した
25,000m³の築堤流出と翌5日午前9時半に発生した同区間122k410m付近での
山津波による約60,00m³の築堤大崩壊であった。
致命的な被害をうけたこの箇所は、高さ30mに及ぶ築堤であったので被災後線路は
大空に架けられたつり橋の様相を呈し、茶褐色に口をあけた山肌は台風のすごさを語った。
さらに現地は標高500m、25/1000の急勾配で管内最大の難所であり
人家もまれな悪作業環境であったのと、追い討ちをかけるように8月10日の
台風10号の阻害もあって、局管内の総力と自衛隊、民間業者の協力で夜を日に次いでの
復旧作業にもかかわらず9月2日まで列車の運行が妨げられ、
この間列車は池北線、広尾線、一部は釧網本線まわりとなった。
根室本線開通以来の大災害であった狩勝〜新内間の不通箇所も、
関係者の努力で予定より10日も早い30日目に復旧したものであるが、
それだけに復旧作業は大変で、8月中の雨量は前年の5倍、
工事中の晴れた日はわずか5日間、雨天9日、他は山を没する濃霧に悩まされどおしである。
このような悪条件のなかで、のべ、国鉄職員12,399人、自衛隊2,083人、東京操機職員84人、
臨時雇用4,911人、ブルドーザー343台で2つの山を崩して8万m³に近い盛土を行った。
復旧費3億円、客貨減収2億円も台風の残したつめ跡・・・
8月4日災害発生以来、昼夜兼行で行われた復旧作業で当初の40日間はかかると見込まれた
難工事も、関係者の血と汗の努力で、9月2日15時45分試運転、
同50分上り貨物第9466列車がバンザイの声に送られて、新内トンネルに吸い込まれて行ったのである。
松尾氏の資料から
このときの121k855mは新内トンネルの新得側出口付近で、122k410mがまさにこの新内沢大築堤のことです。
大崩壊のすごさがわかる写真です。
この場所は現在でも広い敷地のまま残っています。場所は新内沢大築堤の落合寄りです。
この場所の後ろがさらに広く、復旧工事のブルドーザーなどの置き場になっていたそうです。
開通直後はまだシートが被されていています。しばらくは杭を打って沈みをチェックしていたそうです。
松尾氏の資料からの文章中で「2つの山を崩して」とありますが、ひとつはこの新内沢大築堤の修復のために
山を崩しその土で築堤を直していますが、その山は写真のとおり、すぐ横の山を使ったようです。
写真は三品勝暉氏のもので、災害から2年後のものですがまだ生々しく跡が残っています。
列車は築堤を通過中です。現在は木々が成長しこの痕跡はわからなくなっています。
この台風での築堤崩落第一現場となった新内トンネル新得側出口付近での被害状況です。
右上に新内トンネルが見えます。手前側が新得方向で奥が落合方向。
左上では東京操機のブルドーザーがまさに山を崩しての復旧作業中です。
現在新内トンネル横からトンネルの反対側へ迂回する道路がありますが、
その道路はまさにこのときできた道路です。
同じく新内トンネル付近の崩落現場ですが、左上が新内トンネルになります。
右上には保線小屋らしきブロック作りの建物が半分崩壊しているのがわかります。
松尾為男氏の話では台風被害のあった当日、この保線小屋内に2人ほどいたそうで、
雨が強くなるにしたがって建物内に水が浸入してきたのに気がつき、表へ出ると、
線路より山側の谷部分が大きな池になっていたそうです。
そしてじわじわと築堤が崩落していく様子が見えたらしく、2人のうち1人はトンネルを潜り
狩勝信号場まで非難、もう1人は山を登って国道へ非難したそうですが、
国道へ非難した方は官舎まで戻ってくるのに相当時間を要したそうで、かなり心配されたそうです。
当時の国道は現在とルートが違い、細かい曲線で現在よりもかなり遠回りしながら狩勝峠を越えていました。
線路と道路ではあきらかに道路の方が信号場までは時間がかかったと思います。
新内トンネルから崩落部までの距離感がよくわかる写真です。
これもまさにブルドーザーでの復旧作業中です。
注目していただきたいのは、トンネル左側の翼壁です。
この復旧工事後は新内トンネル新得側出口の向かって左側の翼壁は一部がコンクリートになっています。
上の写真では御影石の石垣のままです。
この工事中に崩れたか、また補強のためにコンクリート化したと思います。
新内隧道の項でも登場した杉江弘氏の写真ですが、修復に使用した山がわかる写真です。
そして先ほどの左側の翼壁がコンクリート化されているのがわかります。
その山の削られ具合から修復作業の規模の大きさがわかると思います。
この場所も現在では木が生長し、言われなければわからないほどになっています。
台風被害で不通だった約1ヶ月間、急行「まりも」は石北本線・釧網本線を経由して釧路まで運転していました。
写真は村樫四郎氏がその迂回運転中の下り急行「まりも」を弟子屈駅(現摩周駅)でとらえた貴重な写真です。
先頭はC5750で、次位に荷物車がついています。
狩勝での写真で荷物車は札幌方向に編成されているのですが、
石北本線迂回時の遠軽にて編成が逆になったと想像します。