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鉄道歴史研究


根室本線旧線(通称狩勝線)の狩勝信号場〜新内駅間にあるこのトンネルは
明治40年の開通時から昭和41年の廃線時まで使用されました。
トンネル延長は124m33でそれほど長くはないですが、
現在でも竣工時のままの外観で保存されているところが特徴です。
トンネルの下半分は御影石、上半分はレンガ造りの立派なトンネルです。
使用した花崗岩(御影石)については「佐幌岳の石切り場」の項を参照してください。

トンネルの完成時期は書物によっていろいろあるようです。
新得町百年史には「明治35年5月に完成」と記載されていますが、
この峠越え区間の調査が明治34年で工事に着手したのが明治35年とあるので、
明治35年5月に完成はいくら短いトンネルとはいえ、場所が場所だけに無理と思われます。
ここは「鉄道路線変遷史探訪V 北海道の鉄道」に記載されている時期が正しいように思います。
工事は明治36年10月に着工、翌37年8月掘削完了、同年10月に畳築その他の工事が完了

新得側も同じデザインや形の抗門です。
こちら側には写真付の案内板がありますが、記載内容は狩勝隧道と新内隧道のことが
書かれていますが、狩勝隧道の記載事項がほとんどで目の前のトンネルはいったい
なんという名前のトンネルなのかはこの案内板からではわかりません。
案内板にある写真も提供していただいた大崎和男氏には申し訳ありませんが、
写真は新内隧道でも狩勝隧道でもないようです。

新内トンネルの場所ですが、狩勝信号場からは2.7kmほど、新内駅から6kmほどの位置にあります。


例によって松尾氏に作成してもらった平面図です。
トンネルの中ほどからカーブしている形です。
カーブの半径も221.28mと急曲線になっています。
もちろん25パーミルの急勾配の途中に位置しています。
トンネルの標高が、471mということは新内駅との差は+137mになります。
新内トンネルの右側(高築堤区間)は沢を渡っている場所で、かなり高い築堤になっていてます。
そしてこの築堤には落合第14号溝橋(暗渠)があり、径間3フィートの石積アーチです。
度重なる付近の崩落で、元々の形が失われつつあります。

現在は新得側から15mほどの位置で崩落しており、上からの水などの影響なのか、
ヒカリゴケが自生していてちょっとした人気スポットになっています。

トンネル内崩落部の写真です。天井に穴があいて上部の土砂が流入している様子がわかります。



新内隧道の落合側の写真で2002年の撮影とちょっと古いですが、
現在でもハエタタキがこの位置に立っています。
通信線の電柱はトンネルを潜らず山を越えていました。これは狩勝隧道も同じです。


堀越庸夫氏撮影の新内隧道上付近から撮影されている特急「おおぞら」です。(※トリミングしています)
下り勾配25パーミルと半径201.17mの急カーブを曲がっています。
列車の折れ具合からカーブのキツさがわかると思います。
手前に向かって山を登ってくるハエタタキが見えます。これが山越えしているハエタタキのルートです。
先頭のキハ82系の横から奥へ並んでいるハエタタキは現在もこの位置に現存しています。


杉江弘氏撮影の特急「おおぞら」ですが、上の堀越庸夫氏の写真で
手前から3本目のハエタタキの横を走っています。
下は杉江弘氏と同じ場所から撮影した現在の状況です。
右側の石垣がなければ木が多すぎて同じ場所だとわからないかもしれません。
この写真を撮影してビックリしたのがトンネルの入口で、
左側の石垣と線路の間に立って撮影しています。背中はトンネルの坑口です。


杉江弘氏撮影の新内隧道を通過中の貨物列車ですが、先頭のD51はトンネルの出口から顔をだしています。
でも全長が300mを越す長い貨物列車は、124mのトンネルには入りきってないために、
トンネルの向こう側にも列車の後部が見えています。(一番後ろに後部補機が見える)
ハエタタキの山越えが見られる貴重な写真でもあります。(※トリミングしています)




新内隧道での事故
急勾配と急曲線のこの区間は事故の歴史でもあるようです。
新得機関区所蔵の貴重写真ですが、どうして脱線転覆したかまでは記載されておらず、
写真からわかる範囲で想像するしかありません。
ただ、昭和の10年代の新内隧道付近が写真で見ることができるのは大変ありがたいことです。

トンネルの反対側に救援列車のようなものが見え、それに向かって山越えをしている大勢の人。
なんとなく、新得側から来た方が現場に早く着くと思われますが、
なぜ落合側から来ているのか? 事故の全容が見えないのでなんともいえません。


脱線転覆写真の2枚目ですが、先ほどの写真の拡大ではなく、別に撮影しています。
それと脱線原因の想像ですが、貨車が何らかの理由で脱線したと思います。
後ろの客車は切り離されていますし、人の列もまばらになっています。
貨車からの積荷が外に出されて積まれています。
そして、トンネル入口直前の貨車は脱線し、トンネルの入口に引っかかっているようにも見えます。

これにより、トンネルの入口手前部分は築堤上にもかかわらず、
左右に相当な余裕がある広い場所だったとわかります。
これだけの積荷があったということはやはり上り列車だったと想像します。
手前に見える煙突が屋根から出ている建物は保線小屋で、元保線だった松尾氏も
この小屋を利用したとのことです。現在この小屋は跡形もありません。


トンネル側から新得方向を写したもので、先ほどの2枚目の写真の2両目から写っています。
3、4両目は完全に転覆していますし、4両目は車輪が外れてしまっています。
良く見ると手前のレールが片方なくなっています。
外れたレールなのでしょうか、右端のレール間にレールがあります。


完全に転覆している貨車の写真ですが、良く見るとレールが外れて横にずれていて、
犬釘が置き去りになっている様子が見えます。
先頭の機関車はトンネル内で脱線しているのでしょうか?
昭和10年代の貨車の床下が良く見えるこれも貴重な写真です。


脱線現場のトンネル内の写真ですが、先頭の機関車までは見えません。
ここに写っている貨車も全て脱線していますが、いったい何両脱線したのか?
この写真の裏面に「事故車 チキ634(十両目)、ワ4422(十一両目)、トラ2727(十二両目)」と記載されていました。
トンネル内のカーブの状況から見ると下り方向から撮影しているように見えます。
ということは下り列車だったのか、進行方向から両数を数えていくような気がしますが、
それとも下り方向から数えるのが正式なのか、どなたかわかれば連絡をお願いします。

しかし、現在の新内隧道の天井部分はコンクリートで補強してありますが、
この写真を見るとレンガになっていますので、改修工事は昭和11年より後だったこともわかります。


これも写真の裏面に「事故車 十三両目」と記載されていました。
写真の貨車にも「事故車13」とかかれています。
貨車の車票を拡大すると「十勝清水」と書いてあるのがわかります。
やはり下り列車だったのでしょうか?
全体写真には写っていないので、トンネル内で脱線した車両と思われます。


これも写真の裏面に「事故車 十二両目」と記載されていました。
トンネル内での写真の一番奥に見える貨車が該当すると思います。


この事故に関しては引き続き調査していきたいと思います。




新内隧道ギャラリー