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鉄道歴史研究


根室本線旧線 狩勝峠越えの区間に多くの石材が使われている
根室本線旧線の落合〜新得間の鉄道建設には多くの石材が使われています。
そのほとんどが佐幌(さほろ)岳中腹の石切り場から切り出されたものです。
その石材を一手に引き受けて切り出したのは、岩手県出身の関新太郎であった。


〜 関新太郎 〜 (帯広信金郷土文庫 十勝人心の旅新得から抜粋)

新太郎は慶応2(1866)年に岩手県二戸郡仁左平村(現二戸市)に生まれた。
22歳のとき土木請負業の盛洋社に入社し、8年後の明治29年、
室蘭港の埋立工事にともなって北海道にきた。
そして新たに請け負った夕張大川橋の架橋工事を担当して完成させたあと、
上川線鉄道(現石北本線)の神居古潭トンネル工事に従事する。
トンネル工事では擁壁(ようへき)などに使用する石材を探索して、
音江村の山中に好適材の鉱区を発見。
2年にわたる採掘と工事をもってトンネルを完成させた。
 33年、全ての工事をおえて盛洋社は岩手県に引きあげたが、
新太郎はひとり北海道にとどまって堀内組に入社し、十勝線建設のため、
当時の屈足村字新内に入った。

開拓がようやく始まったばかりの原野には、串内へ抜ける石狩道路(現狩勝峠)をのぞいて
道路といえるような道はなく、新得から佐幌岳山麓への踏み分け道もわからないような状態だった。
新太郎らはカマや腰ノコで、根曲り竹や潅木を切りひらて生活道路とした。
それがいまにつながる国境道路開削の最初であったといわれているが、
木の枝が背につけた荷物の邪魔をするような細い刈り分けだったにちがいない。

狩勝と新内のふたつのトンネルは34年7月から堀削に着手した。
新太郎は擁壁の石材をもとめて佐幌岳山麓をめぐり、
新内駅から2キロほどの中腹で花崗岩の露頭を発見、35年から採掘をはじめた。
その石材は狩勝隧道のほか新内駅のホーム、鉄橋の護岸、建築物の基礎など、
鉄道建設のさまざまなところに使われた。

鉄道が開通したあと、石材は新得市街地の土留めや神社・寺院の献灯や碑などの設置物、
学校の門柱などに使用された。花崗岩は採掘当初からきわめて良質なことで知られていたが、
昭和3年に釧路の幣埋橋の建造に使われて、一躍全道的に名をはせるようになった。

 その後、7年に旭川の旭橋、10年には同じく北海道招魂社の社格昇格記念碑(現護国神社境内)、
札幌の豊平橋、北海道神宮の第一鳥居、小樽運河の石畳、新得小学校の門柱などの建造に使われ、
いまなお残っているものが多い。
なかでも忠魂碑は15尺(約4.5メートル)、
鳥居は24尺(約7.3メートル)ものおおきな花崗岩が使われており、
特に長尺物は、道内随一の品質といわれた。
 そうした長尺物は、切りだすのに10日、駅の土場まで運ぶのに3日ほどかかり、
貨車積みするまで1ケ月の時間を要した。
運搬作業は「シュラ」と呼ばれる特製の丈夫なソリや、
「カクラサン」という網で引っ張る轆轤(ろくろ)を使い、
数頭の馬の力をもっておこなったが、寸時も気をぬけない危険な作業であった。


石切山は以前、新内駅の付近から見えていたが、採掘が中止されてから30年以上もたち、
生長した樹木のかげに隠れてしまった。
昭和61年、採掘跡をのぞむ狩勝旧道に史跡として由来板をたてた。
のち、新内の梅園に移されたが、そのどちらからも今は見えない。




 というわけで、読めばこれはかなり貴重な存在という事がわかると思います。
もっと先を読みたいなどのご要望があれば、以下のURLで読めるようになっているので参照されたい。
帯広信用金庫 郷土文庫シリーズ


ここから切り出した石が使われている構造物の代表写真です。
トンネル内の下半分は御影石(花崗岩)で出来ています。


落合第19号溝橋(サホロカントリークラブ手前)


これ以外にも多数ありますので、旧狩勝線散策時などに探してみるのもいいと思います。


この石切り場ですが、いったいどこにあるのか。
我トロッコの松尾さんは、狩勝線が現役時代は大カーブから見えたといっています。
保線作業中に石切り場の人に手を振ることができたというので驚きです。

場所は国道38号線を新得から狩勝峠方向に進み、7合目付近にあります。
現在でも狩勝峠の展望台から位置だけはわかりますが、見えるまではいきません。
空中写真でまとめてみましたのでご覧ください。

←※マウスをかざすと下の空中写真が変わります。

1948年にあった搬出用の道路らしきものは後年なくなっています。
そのかわり左側に新たな道路ができているのがわかります。
大体昭和30年代まで創業していたそうです。



2009年に実際にこの場所に行くことができましたので、その時の写真を掲載します。
石切り場に近づくとなにやら建物の残骸があります。
石切り場の事務所だったようですが、長年放置されていたので潰れてしまっています。

同じく事務所の残骸です。
かろうじて壁の一部がたっています。

石切り場に到着しました。かなり広い場所で石の壁面も高いです。

違う角度から。

切り出された石がまだ数多く残っています。
ケンチ石に加工されたものの、搬出されなかったのでしょう。

石切り場から山の下を見るとなにやらベルトコンベアーのようなものが続いていて、
その先にはホッパーらしきものが現存しています。
砕石でも作っていたのかは不明ですが、石のサイズを篩(ふるい)にかけるのかサイズの違う網がついています。

ホッパーの下からの写真です。
この下にトラックでも入ったのかかなり高い位置にあります。



1977年の石切り場付近の空中写真を拡大してみたものです。
事務所の建物とホッパーがあるのがわかります。
しかしこのときすでに創業はしていないので、道もそれだとわかる程度で、
事務所付近からホッパー方向への分岐点は道がわからなくなっています。


この写真は、三品勝暉氏の写真ですが、新内隧道の上付近から撮影しています。
山の中腹に石切り場がはっきり写っています。
下の列車は狩勝線を走る上り貨物列車ですが、先頭の機関車の先のカーブを曲がると
新内隧道に入ります。三品勝暉氏の立っている場所がまさに新内隧道の真上でしょう。


上の写真で石切り場部分を拡大してみました。
事務所とホッパーがはっきり見えます。
事務所は二階建てだったことがわかります。外に二階に上がる階段がついています。
2009年に現地を訪ねた際にみた建物の残骸からでは二階建てだったことは
ちょっとわかりませんでした。三品勝暉氏に大変感謝です。

カラーフィルム版もありましたので参考までに掲載しておきます。